大衆音楽


この「大衆」と言う言葉は、10代の頃、嫌いだった。それはおそらく母の影響であったと思う。母は元大阪城付き和漢医の末裔で、大阪船場の旧家に生まれた。幼少の頃の食事風景は、家族が囲む食卓より一段低い所で使用人達が食事をする様な家であった。しかし、戦災で家、財産、全て焼け尽くされ疎開先の小さな家が残されるのみとなる。その後疎開先から僕の家に嫁に来たのであるが、僕の父は京大出身の銀行員、エリートである父を当時母は誇りに思っていたようだ。和歌山の片田舎でこの夫婦は周囲の家とは違う、なにかエリート意識を持っていたのではないだろうか。

(自分の両親をこんな風に客観的に観察するのは相当勇気が要る。だが自分の脳内を整理しようと始めたこのアーティクルであるからあくまでも自分に正直に書いてみよう。もちろん両親に感謝しているのは確かである。今の自分はこの両親無しには有り得ない、自分の命と同じ位大切な両親であることにはかわりない。)

さて、続けよう。そんな家に育った僕の子供の頃の音楽環境は今思えば劣悪であった。昭和30年代の話であるが、マスコミュニケーション成立の時期であり、ラジオは勿論、テレビ、レコードの類いはほとんど揃いつつあった。中でもラジオの文化は音楽を中心に成り立っており、現在の様に商業主義の音楽ばかりが大衆に届けられるわけではなく、ありとあらゆる音楽が電波に載って発信されていた。ところが母はそれに選択を加えて僕に聞かせていた。それはクラッシックを中心として当時の洋楽である。つまりエリートな家では流行歌の類いの大衆音楽は聴かない、と言うわけである。おかげで僕は同年代の人間と当時の流行歌の話をしてもチンプンカンプンである。

十代の頃の「大衆(大衆音楽)」嫌いはおそらくこのへんの理由であると思う。十代の頃から周りの友人が聞く音楽はほとんど聴かず、その音楽的な嗜好はどんどんアヴァンギャルドへと先鋭化していく。おかげで9歳年下の弟は小学生や中学生にしてフリージャズを聞くと言う妙なやつになってしまった。

ところが、20代の中盤にその揺り返しが来る。それはブラジル音楽を知る事によって起こった。「サンバ」である。サンバは大衆音楽の権化のような存在で、アメリカや日本での商業と深く関った大衆音楽ではなく、まったく純粋に大衆によって創造された音楽である。しかもかなり複雑で高度な完成度をもっている。言い方をかえれば「最も成功した民族音楽」と言えるかもしれない。

さて、では「大衆音楽=民族音楽」の図式は成り立つのだろうか。これは分類法にもよろだろうが、おそらく次元の異なるものを同等に扱うよくある間違いである。が、しかし、自信を持って言えることは「民族音楽は大衆音楽から生まれる」で、ある。まてまて、カテゴリーの定義をしないままに話を進めている。
民族音楽とはなにか。ある一定の民族の文化集団が共有する音楽の事だろうか。抽象的な定義だがヨシとしよう。対してこのレベルでの定義(ある一定の人間の集団のレベル)では大衆音楽はどうなるか。恐らく民族を超えていると思われる。例えばハワイアンミュージックはそのハワイ諸島一帯にあった元の音楽から形を変えて日本に定着している。しかもある一時期一般大衆が共有していたため「大衆音楽」と呼んで差し支えないだろう。
さて、民族音楽が大衆音楽化していくのとは違うベクトルはなんであろうか。幾つかの例を上げてみよう。
・儀式と密着した音楽(宗教音楽等)
・ブルジョア内での音楽(宮廷音楽等)
・芸術音楽
以上三点以外にも色々考えられるだろう。

話を戻して「民族音楽は大衆音楽から生まれる」。この定義はどうであろうか。

(C)Xou 2002.6