ナショナリズム
2002.6.18。今日ワールドカップ決勝トーナメント第一戦、日本vsトルコ戦で日本が敗退した。対戦後の中田英寿選手のインタビューでの一言
「皆よく頑張った、しかし結果がこうだったのは、まだ何か足りないものがあるのでしょうか」
この足りないものとは一体なんだったんだろうか?
その後夜には韓国vsイタリア戦で韓国が勝利した。FIFAワールドランキング4位のイタリアにである。しかも、イタリアを本気にさせた試合で、試合終了間近の同点ゴールを決め延長後半での一点で。韓国チームの選手達は最後までよく走った。昼に日本が敗退しているだけに、なんとなく複雑な心境で見始めた試合だったが、韓国の頑張りを見ているうちに、最後には純粋に韓国を応援していた。
この日本と韓国の結果の差に中田の言う「なにか足りないもの」があったように思う。それは、一体なんだったのか。
あれから色々と考えてみて一つ気づく事があった。
その「なにか足りないもの」とは真のプロ意識ではないか?
予選リーグから決勝トーナメントへの各試合の両チームの試合後の態度を考えてみた。
日本代表チームは各試合後「俺達はプロフェッショナルだ、与えられた仕事は100%こなした」と言わんばかりに喜びを素直に表現することなく淡々とフィールドを去っていく姿が目立った。勿論、喜びを表現している選手もいたが韓国代表の喜び様に比べたらなんと淡々としていることか。プロはそう言うものだろうか。ここに一つの欠陥が有ると僕は思う。
プロサッカー選手とは「勝つ」事が第一使命なのだろうか。僕が考えるに、「お客さんを喜ばせる」事が第一使命だと思う。もちろんその結果として「勝つ」事が有る訳だが。仮に「勝つ」事が第一使命だとしよう。すると、どんな汚い手を使っても勝てばいいと言う事になる。お客さんは喜ぶだろうか。否。たとえそれがカップの懸かった試合だったとしてもお客さんは「正々堂々と力を出しきった」事に喜ぶのであって「汚い手」を使えばどんな結果だろうとお客さんは喜ばない。
韓国代表チームはまったくもってプロフェッショナル集団だ。試合後のパフォーマンス。得点したときのパフォーマンス。
決して独り善がりでないお客さんを意識したパフォーマンス。対アメリカ戦の時のスケートのパフォーマンス。あれは日本人である僕が見てても胸がスカッとした。(特に例のショートトラックも僕は見ていた)
これはサポーターも盛り上がるわけである。そして彼らのプロフェショナルたるところは、サポーターが喜んで応援に熱が入れば自分たちも更に強くなれることを良く知っている。FIFAランキングでは日本よりも更に下だった韓国代表がベスト4まで登りつめたのも、このサポーターとの「正のフィードバック」があったからこそでは無いだろうか。
さて、仮に僕の結論が正しいとしよう。すると、この「なにか足りないもの」を足らせるためにはなにが必要だろうか。
恐らくこれは、今の日本で最も難しい命題。教育、社会、文化等で「喜びを共有する喜び」が大切であると構造転換しなければならない。「自己中」であるとか「独り善がりの自立」が社会問題となっている国の代表チームはカップを手にすることは出来ない。と、言う結果になりはしないだろうか。
2002.6.18。今日ワールドカップ決勝トーナメント第一戦、日本vsトルコ戦で日本が敗退した。対戦後の中田英寿選手のインタビューでの一言
「皆よく頑張った、しかし結果がこうだったのは、まだ何か足りないものがあるのでしょうか」
この足りないものとは一体なんだったんだろうか?
その後夜には韓国vsイタリア戦で韓国が勝利した。FIFAワールドランキング4位のイタリアにである。しかも、イタリアを本気にさせた試合で、試合終了間近の同点ゴールを決め延長後半での一点で。韓国チームの選手達は最後までよく走った。昼に日本が敗退しているだけに、なんとなく複雑な心境で見始めた試合だったが、韓国の頑張りを見ているうちに、最後には純粋に韓国を応援していた。
この日本と韓国の結果の差に中田の言う「なにか足りないもの」があったように思う。それは、一体なんだったのか。
2002.6.18
あれから色々と考えてみて一つ気づく事があった。
その「なにか足りないもの」とは真のプロ意識ではないか?
予選リーグから決勝トーナメントへの各試合の両チームの試合後の態度を考えてみた。
日本代表チームは各試合後「俺達はプロフェッショナルだ、与えられた仕事は100%こなした」と言わんばかりに喜びを素直に表現することなく淡々とフィールドを去っていく姿が目立った。勿論、喜びを表現している選手もいたが韓国代表の喜び様に比べたらなんと淡々としていることか。プロはそう言うものだろうか。ここに一つの欠陥が有ると僕は思う。
プロサッカー選手とは「勝つ」事が第一使命なのだろうか。僕が考えるに、「お客さんを喜ばせる」事が第一使命だと思う。もちろんその結果として「勝つ」事が有る訳だが。仮に「勝つ」事が第一使命だとしよう。すると、どんな汚い手を使っても勝てばいいと言う事になる。お客さんは喜ぶだろうか。否。たとえそれがカップの懸かった試合だったとしてもお客さんは「正々堂々と力を出しきった」事に喜ぶのであって「汚い手」を使えばどんな結果だろうとお客さんは喜ばない。
韓国代表チームはまったくもってプロフェッショナル集団だ。試合後のパフォーマンス。得点したときのパフォーマンス。
決して独り善がりでないお客さんを意識したパフォーマンス。対アメリカ戦の時のスケートのパフォーマンス。あれは日本人である僕が見てても胸がスカッとした。(特に例のショートトラックも僕は見ていた)
これはサポーターも盛り上がるわけである。そして彼らのプロフェショナルたるところは、サポーターが喜んで応援に熱が入れば自分たちも更に強くなれることを良く知っている。FIFAランキングでは日本よりも更に下だった韓国代表がベスト4まで登りつめたのも、このサポーターとの「正のフィードバック」があったからこそでは無いだろうか。
さて、仮に僕の結論が正しいとしよう。すると、この「なにか足りないもの」を足らせるためにはなにが必要だろうか。
恐らくこれは、今の日本で最も難しい命題。教育、社会、文化等で「喜びを共有する喜び」が大切であると構造転換しなければならない。「自己中」であるとか「独り善がりの自立」が社会問題となっている国の代表チームはカップを手にすることは出来ない。と、言う結果になりはしないだろうか。
2002.7.17