イマジネーション



日本人は外来語をあまりはっきりした意味を分からずに使っている事が多い。
アートと言う外来語の正確な意味をご存知だろうか。「芸術」と訳されるわけだが、この芸術と言う言葉ほどいいかげんな言葉はない。なんでも、明治時代に「アート」を翻訳するために出来た言葉らしい。
「おいおい、それじゃ、日本語じゃないわけか」
その通りである。「芸術」と言う言葉は日本語ではない。いや、もっと正確には、今は日本語だが本来、日本には無い概念である。明治時代に「アート」を翻訳する時に新たに作った言葉だ。が、しかし、その時に「アート」を正確に翻訳せずに新たな言葉として「芸術」としたため未だにその概念(中身)は喪失したままの空っぽの言葉である。
アートを今の辞書でひも解くと。

art 芸術, 美術; 技術, 技能;
芸術作品;
学芸 (liberal arts), 人文科学; 人工; 技巧, 熟練; (時にpl.) 術策; 〔古〕 学問

「芸術」と、いう訳が出ているがこれは「アート」から作った言葉なので本末転倒。無いものとする。
さて、「美術」はよしとしよう。「技術」。ん?あれれ、なにか違う。「人工」「技巧」「熟練」「学問」。おお。
全然違う。
日本で言う「芸術」とは、そんな熟練した技によって人工的に生み出されるものじゃなくて、ある一定の生まれながらの才能を持った人が人知の及ばない霊的な力によって生み出される超自然現象的なものであったはず。
「熟練した技」は職人によって生み出されるもので、「芸術」の世界では「職人技」と言うのは見下げられた言い回しのはずである。


「あの人のバイオリンは職人芸だからねー。」

「あの人は職人だからなんでも見境無く演奏しちゃうんだよ。」

「いやー、あいつは神懸っているからねー。職人芸とは対極だよ」


など、と言う。つまり芸術の世界で「職人芸」とはお金にまみれた下卑た芸なわけだ。
もう一度訳を見てみよう。全く違う。空虚だ。恐らく、「アート」と言う言葉を使う母国の人達は「art」と発音するとき、少なくとも「職人芸」と言う概念も少し含んで発しているはずである。
以前、歌舞伎専門の照明の方と話をした事がある。その時の印象は歌舞伎役者の言う「芸」とは「職人芸」という概念が相当大きな比重で含まれていると言うことだった。
以前、シタール奏者と話したことがある。インドのシタール奏者は演奏中、めまぐるしく音列を計算していると言っていた。
右脳、左脳の時と同じである。またしても我々日本人だけが、、、、、、、
「art」=「芸」で良かったのである。そのものズバリだ。
文明開化の頃。知識人達は日本伝統芸能の世界よりも西洋芸術の方が高級に見えていたのだろう。なにか、自分達の知らない、相当高級なことが行われていると思っていたのだろう。その思い違いが空虚な言葉、空っぽの概念を生んでしまった。その事により何人の人々が絶望の淵に沈んでいったことか。何人の人が酒に走り、挙句の果てに薬に身を任せ、最後には命を絶って行った事が。

芸術 特殊な素材・手段・形式により、技巧を駆使して美を創造・表現しようとする人間活動、およびその作品。建築・彫刻などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・舞踊・映画などの総合芸術に分けられる。
(2)芸・技芸。わざ。

国語辞典を引いた。まったく正確である。これで、いいのである。しかし、普段日本人の会話に出てくる「芸術」はこれとは違う、どこの家庭にもある国語辞典に正確に出ているにもかかわらず。

日本人は外来語をあまりはっきりした意味を分からずに使っている事が多い。
日本語とはそもそも、「大和言葉」「漢語」「外来語」の3っつで出来ているらしい。「漢語」はそもそも外来語である。我々は空虚な概念を使って話してはいないだろうか。

さて、まあいいだろう。仕方のない事だ。
さあ、話題を変えよう。

イマジネーションである。

image 像; 肖像, 画像, 彫像; 映像; 形; 生写し (the 〜 of his father); 典型; 象徴;
【心】心像; 面影; 全体的印象;
【修辞】比喩(ひゆ).
imagination 想像力; 創作力; 機転; 想像(の産物), 空想
impression 印象

impressionも一緒に引いてみた。はは、imagination=impression?
そう、違う。まあ、違う事も無いか。「心象」=「印象」と取れなくも無い。
この微妙な違いはなんだろう。まず、「心象」とは今現在である。目で見ている物に対する心の作用とでも言おうか。南方熊楠の言うところの「物不思議」と「心不思議」の出会うところに生まれる「事不思議」である。
対して「印象」とは以前見て心に刻まれた事。つまり、過去に起こって今現在、心に残っているもの。熊楠曰く、「事不思議」が心に作用して「印」を生むである。
しかし、この訳にしてもどこかおかしい所があるだろう。もういい。「イマジネーション」と言う外来語と言う日本語で話を進めよう。

で、ここに大きく誤解がうまれる。
普段、我々日本人は「イメージ」や「イマジネーション」と言う外来語を使う場合、なにかフワフワしていてモヤモヤしている事柄と思っていないだろうか。この事は「芸術」と同じく思い違いを生んでしまっている。いや、思い違いと言うよりも「イマジネーション」の本当のパワーを発揮できずに、もったいない事をしてしまっている。
以前、長島茂雄が言っていた有名な言葉。

「ホームランを打つときは、打った後、三塁ベースを優々と回っている自分をイメージしながら打つ。」

と、語っていた。これである。彼は「イメージ・パワー」の正当継承者なのだ。
これを聞いた人々は「やっぱり彼は天才だから」と片付けてしまっただろう。自分とは関係無い世界の話だと。
僕も、長年ミュージシャンを続けてきたが、彼の言葉に思い当たる節があり、ずっと心に引っかかっていた。イメージの力とは思ったよりもモヤモヤとした物では無く、もっと具体的で明確なものではないかと。そして、ここに断言しよう。イメージとは鍛えて磨くものであり、フワフワ、モヤモヤではなく光輝く黄鉄鉱の立方体の結晶の如く正確で明快で強固なものだと。

それは、信じる事から始まる。
人間はとんでもない潜在力を持っている話は聞いた事があるだろう。だれもが火事場の馬鹿力を持っている。いざと言う時には普段の5倍以上の筋力を発揮できる。とか、生まれてこの方全ての記憶は残っている。ただ、それを引き出す能力がないだけである。等々。色々、普通の人間にまつわる尋常でない力の事はしょっちゅう聞く。しかも、人類だれもがその潜在力を持っていると。おまけに、それにかこつけた怪しげな商品や宗教まであらわれる始末だ。
火事場の馬鹿力の事を調べたときにわかった事がある。それは、筋力自体は普段の5倍以上はあるのだが、それを使ったが為に筋肉周辺の組織が破壊されるのを防ぐために脳がリミッターを働かせているらしいのだ。
まてよ。全ては心の問題なのか?ひょっとしたら「心頭滅すれば火も自ら涼し」なのか?
色々な事柄は組合わせれば真実が見えてくる。
まさに、その通りで自分の表層の心を滅してずっと奥底にある何かを信じれば限りない能力を発揮できるのではないか。ヨガや原始仏教の言ってる通りではないか。

長島茂雄は実践していたのである。かれは信じる人であった。

よし、音楽に利用しよう。
さて、どうするか。まず人間の能力を超えていそうな事柄から。

よく、ビートが遅いからグルーブが悪い。と、悩んでいるミュージシャンを見かける。
「ビートが遅い」と、人から指摘されたときに気をつけなければならないのは、人は無責任であると言う事を忘れてはいけない。たとえば、ベースを弾いているとして、彼はまだまだ技術的に問題があるので運指の難しいところで物理的に間があいてしまう。それが、一曲の中に5箇所あったとしよう。一緒にプレイしていたドラマーはその5箇所の不快感によってベーシストは全体的に遅いと思いこんでしまった。良くある話である。そう言われたベーシストはその運指を訓練すればいいだけなのに、彼は全体的にどの音符も遅く弾いていると思いこんでしまう。で、修正しようとして全体的に早め早めに弾いてしまう。次の日から彼は「ハシル」ベーシストになりさがってしまう。こうやって音楽をやめていったプレイヤーを山ほど見てきた。実際にはスゴク良いグルーブを持っていたはずのプレイヤーたちである。

さて、運指はクリアできたとする。まだ、遅いと言われる。これは大概なにかクセが残っていて何処かの拍が常にゆるく弾いてしまっている場合が多い。さあ、どうするか。その場所を発見出来た。しかし、修正するのは僅30msecの差である。意識的に在る拍だけ0.03秒だけ早くするのは人間には不可能に思える。いや、不可能である。出来ない。意識的には無理である。つまり、意識的には。で、ある。そこで登場するのが「光輝く黄鉄鉱の立方体の結晶の如く正確で明快で強固な」イメージの力だ。少し試してみよう。まず、リハーサル現場にて。彼に演奏する前にヘッドフォン等でこれから演奏する曲と同じテンポ、同じグルーブの素晴らしい曲を聞かせる。さあ、ヘッドフォンをはずして演奏してみよう。旨く行った。かれは、心に刻まれたイメージで乗りきったのである。さあ、次の日、本番。だめだった。これは、なんだろうか。これは、「心象」と「印象」の差が、生まれているのである。リハーサルの時は素晴らしい曲を聞いた後すぐに演奏した。つまり、次の日にはイメージは残っていなかったのである。心に「印」として刻まれていなかったのである。さて、問題解決は簡単、彼に心に「印」するまで繰り返し「印象」着けて、いつでも取り出せるようにすれば良いだけなのだ。彼の心のコンプレックスを取り除き自分には出来ると思いこませる。そして素晴らしいグルーブを沢山聞く。聞いている時に感じる強烈なグルーブ感や高揚感、疾走感。それらが何時でも取り出せるように繰り返し聞く。

さて、次の例。
よく、ラテンビートとスウィングビートが交互に現れる曲で4ビートになった途端にバンドのグルーブが不安定になることがある。20代の頃にオープンテープレコーダーを使って調べたことが有る(テープの長さを計ってテンポを計算してみた。)。そのビートが切り替わるときに素晴らしいスピード感を生む曲である。結論から言うと極僅テンポが上がる。つまり単純にテンポを上げれば良かっただけなのだ。しかし、その差は極僅。1とか2の差である。こんな事は人間が意識的に出来ない。そこで、イメージの力。その感じを心に「印」する。そして、この場合はバンドのメンバー全員で同じイメージを共有するのである。このイメージの力によって意識では不可能だった事が可能になる。ただし「テンポが速くなる」と意識しては絶対にいけない。意識はいつも人間の能力にリミッターをかけようとしているのである。


ある程度年齢の行ったミュージシャンなら皆経験があるだろうが、ある日、自分でも信じられなく体が動いて、思うが侭の演奏が出来た事があるだろう。突然、大音響で演奏しているにも関らず回りが静まり返りスローモーションになり、クリアになり、全てを見とおせる。バンドの上から自分を見ているような経験。まるで自分の後ろに神が降臨したかのような経験。だからこそ、音楽をやめられなくなり、そんな年齢まで貧乏ミュージシャンを続けてしまっている。逆に言うとやめていった人々はその経験をする事がなかったのだろう。一度経験してしまったら最後その呪縛から離れなくなり「もう一度あの経験を、、」と思ってしまう。中には酒や薬物の力を借りて再現しようと試みるミュージシャンもいる。しかし、まて、これは心頭滅する事によって何時でも自由自在に取り出せるようになるのである。
自分を信じてイメージを心に刻め。繰り返し繰り返し何時でも取り出せるようになるまで、、、


2004.02.17 (C)Xou